読書ノート

(本タイトルのフォント青色の書籍が、私の好きな「100冊の本」候補)

2010.12

「つゆのあとさき」
永井荷風
岩波文庫

2010.12.2
気儘に男と遊ぶ銀座のカフェに勤める女に、己がパトロンと思い込んでいる通俗作家が、怨み辛みで何か仕返しをと目論む話。谷崎潤一郎は、この作品を「昭和初年の東京を描いた記念すべき世相史、風俗史」と評している。男のウジウジした身勝手さと、淫恣な女のおおらかさが、流れるような言葉で描かれている。谷崎潤一郎は「古めかしい文章の体裁」と断じているが、私には、度々読み返したくなる流麗さで、書き写して全文を覚えたい程の見事さ。傑作である。次は荷風の最高傑作で主人公が荷風の分身と云われている「墨東綺譚」を読むのが楽しみ。このような傑作は読書の楽しみを教えてくれる。

「脂肪の塊」
ギィ・ド・モーパッサン
パロル舎(石田明夫訳)

2010.12.3
敵軍占領下を行く1台の馬車に乗り合わせたブルジョワたちと1人の娼婦。一行は、あだ名を「脂肪の塊」という娼婦持参の食料を分けてもらって空腹をまぬがれ、一度は愛想をよくした面々も、敵将校が娼婦に目をつけ一行に足止めをくわせたと知るに及んで、その娼婦に・・・・・。人間の卑劣なエゴイズムを痛烈にあばいて、モーパッサンの名を一躍高めた名編(岩波文庫内容紹介より)とある。実話に基づいた話のようで、確かに人間の身勝手さを描いているのだが、話が余りにも直截的過ぎて、芸も何もあったものでない。自分たちは娼婦からは食べ物を貰うが、反対に娼婦には与えないとか、自分たちの都合で嫌がる娼婦に敵将校に身を任かさせると云った展開は子供騙しそのもので身も蓋もない。翻訳物は翻訳された段階で別物だとの意固地な偏見を拭い去ることが出来ないのだが、矢張りこの翻訳も浮ついた空疎な言葉が、言葉として連なっているだけで想いを伝える文章となっていない。「女の一生」を読もうとの気にはならない。
「墨東綺譚」
永井荷風
筑摩書房(現代日本文学大系24)

2010.12.4
小説家の私と、墨東の裏町、蚊のわめく溝際の家での娼婦、お雪との出会いと別れが季節の移り変わりを交え美しくも哀れ深く描かれている。劇中劇のように、小説の中に小説を書き、その舞台は向島あたりだと玉の井に話を展開させ、お雪を登場させる。そのお雪は玉の井に似合はしからぬ容色と才智をもった鶏群の一鶴で、遂には「おかみさんにして」と云わせ私の切ない心持はいよいよ切なくなる。どこからまた何度読んでも、たまらなく惹き込まれる。最後に「若しここに古風な小説的結末をつけやうと欲するならば」と洒落た洒落た終わり方を見せる。こんな洒落た終わり方は堪らない。永井荷風は、正に神経の研ぎ澄まされたプロの作家だと思う。読めば読むほどそう思う。佐藤春夫は「墨東綺譚は、現代日本にもまだ芸術が残っていたのかという、有り難い感激をしみじみと味わせる名作である」と云っている。岩波文庫の木村荘八の挿絵は素晴らしい。情景が物の見事に浮かぶ感じ。(墨東綺譚の墨は、正しくはサンズイ偏)。

「ゴールデンスランバー」
伊坂幸太郎
新潮社

2010.12.7
2008年ダントツの本屋大賞、山本周五郎賞受賞作。総理大臣凱旋パレードでの首相爆殺の濡れ衣を着せられた男が、大学時代の元恋人や友人たちの助けに支えられながら必死の逃亡を試みるという話。ただただ逃げるだけと云う話なのに、最初はどうしようない程、戸惑いを感じた過去と現代を交差させる構成と、散りばめられた伏線に惹き込まれてしまう。洒脱なユーモアもたっぷりで後味も良い。作者自身、本作品からを第二期作品と云っている様にこれまでの集大成の作品なのだろう。エンターテインメントと云う意味では、文句なしに面白い工夫された作品。ただ、浅田次郎が周五郎選評で面白い事を云っている。「文学には不可欠の要素であると千年も信じ続けられてきた、主題性も思想も哲学も、くそくらえである。開いた口も塞がらず読み進むうち、いつしか私も主人公と一緒に逃げ回っていた」と。篠田節子は選評で「自分の小説的趣味を振りかざして、それなりの完成度を示した作品の受賞を妨げる理由はない」と。難しいものだ。
「雁」
森鴎外
岩波文庫

2010.12.8
卑しくも妾に身を堕とし、しかも高利貸の妾になっているお玉が、散歩の道すがら家の前を通る医学生に淡い恋をする話し。医学生が不忍池で雁を逃がそうと投げた石がたまたま雁に命中して殺してしまうと云う事件で、お玉の望みは潰えてしまう。翌日医学生はドイツに発つ。情景が浮かんでくるように綴られた言葉に惹き込まれ何ともいえぬ哀感に浸れる作品。尻切れトンボに終わった記憶が強かったが、ほのぼのとした情感に浸ることが出来た。
「暗闇坂の人食いの木」
島田荘司
講談社

2010.12.11
スコットランドの小さな村で、輝くような金色の巻き毛、抜けるような白い肌、ピンク色の可愛らしい唇、緑色の大きな瞳の女の子が壁の中に塗り込められてしまう不気味な猟奇殺人事件で始まる推理小説。さらし首の名所暗闇坂にそそり立ち、人食いの木だと畏れられ、地表の裂け目からむくむくと噴き出した溶岩が固まってしまったような幹を持つ異相の怪樹、樹齢二千年の大楠にまつわるな殺人事件を御手洗探偵が解決する(566ページの大作)。正に奇怪、残忍、身の毛もよだつ不気味さが、世界の残忍な死刑の話を交え、乾いた筆致で、これでもかこれでもかと迫ってくる。不気味なホラー小説をも思わせる。息もつかせぬほどの恐怖の中で最後までくるが、謎が解かれてしまうとただあっけなく終わったと云う感じ。推理小説は心に残るものがない。もう一度読みたいと云う気は起こらない。感激、励みと云った読書の喜びは無い。
「風の又三郎」
宮沢賢治
春陽堂書店(宮沢賢治20選)

2010.12.12
谷川の岸の小さな小学校に、ある風の強い日、不思議な少年が転校してくる。少年は地元の子供たちに風の神の子ではないかという疑念とともに受け入れられ、さまざまな刺激的行動の末に去っていく。その間の村の子供たちの心象風景を現実と幻想の交錯として描いた物語(ウィキペディアより)。懐かしい世界に呼び戻してくれる童謡。このような純粋で無垢な世界が何時までもあってほしいものと思う。朗読すると推敲しつくして練り上げられたのが良く分かる。
「白夜行」
東野圭吾
集英社文庫

2010.12.14
廃墟ビルで質屋主人が殺された。被害者の息子と容疑者の娘二人の周囲には不可解な凶悪犯罪が次々と起きる。事件解決まで19年掛かる、854ページに及ぶ大作。二人の内面は一切描かれず、行動のみが淡々と綴られるのだが、サスペンスとしての盛り上がりに欠け緊迫感がまるで生まれてこない。ベストセラーにもなった作品で、東野圭吾作品一番人気との事だが私には読み切るのに苦労した。悲しみ、喜びといった心の内に関わる記述は一切なく、出来事の記述だけでどう解釈するかは読者任せになっている。延々と事件記録を綴っているだけと云っても良い。新聞記事だ。物語は先ず面白くなければいけない。また作者の想いが如何なるものであるにせよ入っていないと、味付けのない料理を食べるようなもので味気ない。この作品は正に味気ない。東野圭吾には、もう戻る事がないと思う。
「人間の条件」第一部・第二部
五味川純平
三一書房

2010.12.16
兵役免除と引き換えに、満州の100km離れた山奥の殺伐な老虎嶺採鉱所に赴任する。戦争を錦の御旗に支那人鉱夫を虐げている悲惨な状況の改善を目指し、新たに送り込まれた600人の北支の捕虜に人間としての良心を発揮して接するために命懸けの抵抗を試みる。憲兵による捕虜の処刑を止めた事で憲兵に囚われられ拷問の後、釈放されるが待っていたのは、「あなたが間違った事をしても云ってちょうだい。あたしもそこを一緒に歩きます。あなたが苦しんでいるなら、あたしにも苦しませる事で愛してちょうだい」と云う愛しい新妻との間を引き裂く臨時召集令状だった。
人間の条件を見究めたいと云う途方もない作者の企みのもと始まった物語。ともかく心が揺さぶられドスンと体に響く。「二つの民族の長い宿縁と利害の相克の複雑な機構の中で、一個の微力な人間がもがき、ブツブツと泡を吹いているに過ぎない」と戦争に巻き込まれた主人公が、これからどう生きていくか。人間の条件が見究められるか。息をつかせない。

「秋の夜半の虫の音は儚い生命を泣くのでなくて充溢した精気を歌い上げるその声が、もの哀しく聞こえるのは、よほど人間と云うものが悲しく出来上がっているからだ」と筆者は云う。
「椋鳥の巣」
古谷恭介

2010.12.19
生涯に二万句を詠んだと云う小林一茶の、不遇の生涯が飾らない言葉で語られている。三歳で母と死別。後ろ盾と恃んだ夏目成美の急死で江戸の宗匠にもなれなかった。52歳での最初の妻との四人の子は皆、赤子の時、夭折する。「死神に選り残された秋の暮」と自分を呪う。二番目の妻には、二か月で逃げられる。大火で家も類焼し焼け残った土蔵で三番目の妻と連れ小の三人暮らし。その妻が産んだ女児も見ることなく65歳で亡くなる。何と不遇な一茶の生涯が乾いた言葉で憐れむ事なく淡々と語られ、心に残る見事な短編。筆者は「俳句は簡単に出来るものでない。言葉との格闘、死闘を経て、削りに削った大木の芯」と云う。
「露の女」
古谷恭介

2010.12.19
諸国放浪の旅の後、故郷に戻っていた70歳になる良寛と、弟子入りを希望した30歳の貞心尼との関わりを両人が残した歌から作者が描いた、実は二人はこうあったかも知れないと云う夢語り。是非にそうあってしかるべきと喝采したくなる。良寛さんもさぞ舌を出して頭を掻いているに違いない。良寛辞世の呟き「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」の正解を知っているのは、貞心尼だけなのだろう。
「女たちのジハード」
篠田節子
集英社

2010.12.23
1997年直木賞受賞作品。中堅保険会社に勤めるOL5人それぞれの人生を切り開いていこうとする女たちを描いた話。闘う女たちの姿勢と文章の勢いとがマッチしている。文章力が抜群で 映画の一こま一こまを克明に説明するように話が進んで飽きさせない。ただ何か物足りなく胸に響かない。
「人間の条件」第三部・第四部
五味川純平
三一書房

2010.12.27
臨時召集の後の、酷寒の北満州での厳しい訓練と、古参兵による懲罰教育、下級兵に対するリンチ、しごき、初年兵仲間のの自殺、逃亡など軍隊という場所が恐ろしいまでにリアルに描かれる。その中で、新妻がはるばる千五百キロ鉄道を踏破して訪ねて来る。急性肺炎で陸軍病院送りになった後、ソ連侵攻阻止の関東軍ソ満国境部隊に配属され、そこで、少尉になった友人と再会。上等兵に昇進し四、五年兵を差し置いて二年兵が初年兵の教育を担当する事となる。新兵を庇って四、五年古参兵より凄惨なリンチを受けるが、軍隊の不条理さから逃げることなく、軍隊の理不尽さに諦めて人間を放棄し兵営の習性と妥協する事なく、遂には古参兵と対立する。非行の数々を五年兵に認めさせた翌朝、遥か稜線上に、無数の黒点としてソ連の戦車が現れていた。

余りお目に掛かれない迫力に圧倒される。魂の底揺れする迫力。
「人間の条件」第五部・第六部
五味川純平
三一書房

2010.12.30
ソ連国境でソ連軍の砲撃を受け全滅。160余名のうち生き残ったのは4人。「僕はもう沢山なんだよ。自分の意志以外の力で、あっちへひっぱられ、こっちへ動かされて、自分の生活を台無しにされることはね。自分の本心に従って行動するのだ。助かろう。命を存えて必ず帰り着こう。決して死ぬまい」と、愛しい妻の元に戻るため南満を目指す。匪賊、敗残兵の、敵中突破の捕まるか、殺されるか、野垂れ死にするかの壮絶な難行軍、飢餓と戦いが描かれる。最後は捕虜となるも鉄条網を抜け出し脱走する。「雪は降りしきった。雪は無心に舞い続け、降り積もり、やがて、人の寝た形の低い小さな丘を作った」の結末を迎える。

「何を書くにしても、それが物語であるならば面白くなければならない」との著者の想いには、1,300万部を記録した空前の大ベストセラーが応えている。表現力が抜群。どれだけ神経を磨り減らしてこの作品を書いたのかと思うと一言一句見逃してはならぬものかとの気構えでこの超大作を読んだ。ともかく、ドスン、ドスンと胸の奥に重たく重たく響く一冊。人間としてある事とはが随所に語られる。一年を締めるに相応しい傑作。

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